自分

雨が上がった朝、お庭をうろうろしていると

雫が太陽を跳ね返していて

あらゆるものがキラキラして、

なんとなく気持ちも一緒に晴れていくような

感じがあった。

 

昨日はぐっすり眠れたのも合わさって

気分を一新してくれたのかな。

 

眠る前までは、ジェットコースターみたいに

浮き沈みしてた。

 

今年に入って気づいたんだけど、

多分自分はどうしようもないくらい

転がって落ちていく瞬間がある。

 

ひとつ前の仕事を辞めるときに

初めて自分が、コントロールできていると

思ってた部分の外側に

よく知った姿の外側に

投げ出された時があって、

無理やり診断名をつけてもらった。

この当時は、なるほど、私はこんなふうに 

なるんだ!っていう驚きと

でも、診断名をつけるほど大したものじゃなく

休職するために必要だったつくりものの姿

だと思ってた。

 

でもあれから数年が経って

最近、じっくり自分の姿を

瞬間瞬間の感情とか、行動とかを

目を逸らさずに捉えると

これはちゃんと分析して、方向性を変えていく必要があるんじゃなのかな…

と思うようになった。

 

もともと心配性、考えすぎ、思い詰めすぎとかって言われ続けていたけど

こういうのは生まれ持ったもので、

性質だから仕方ないと思ってた。

 

だけど、年々考えること

立ち止まってしまうきっかけの一つ一つの粒は

砂みたいに細かくなっていくし

ふるいの隙間をその分広げれば良いのに

どんどん狭くなっていくような。

 

ふっと二人きりになった時

何が怖いのか、体が内巻きに織り込まれて

地面に潜っていく感じ(これはなんかすごく変)

がある。

そしたらしばらく起き上がれなくて

大事な1日の多くの時間を無駄にしてしまう。

 

なのに今、朝起きてみると

なんてことなかったように感じる。

 

眠ると頭の中のゴミが掃除されて

必要なものはあるべき場所に整理整頓

されるから。

そういうことらしい。

 

この流れに身を任せることもできるんだけど、

なぜ、どうにかしたいのか考える。

 

今頭に浮かぶのは…

大事な人と過ごす時間にもっと良い人間の姿で存在していたいから。

もしかしたら、すぐ隣を流れる感覚には

別の景色が広がっていて

実際はとても簡単にそこへ行けるのかも

しれないから。

コントロールできない、できる、

そういうものは全部

狭い意識の中で構築されているだけなのかも

しれないから…

 

多分今立ち止まっていることは

どれもきっと簡単なのかもしれない。

難しく考えているのかもしれない。

不安や鈍痛も自分が選んで

作り出しているのかもしれない。

 

周りに頼りっきりだけど、

今こうやって向き合ったり

何もできずに終わった一日を振り返ることが

できるのは

多分信頼できる人がそばにいるからだと思う。

 

自分にとってそれは母なんだけど

大事にしていただいた分だけ

それをなんとかして返したくて、

良い時間を共有するために、

良い人間になりたい。

 

好きな人や、親友や、大切な人は沢山いる。

自分にはもったいない人たちばかりだと思う。

でも、いつも自分を変えたいと思うのは

本当に心の底から信頼できる人の

存在だと思う。

 

人生において

このような人に巡り会えることは

とんでもなく贅沢で奇跡だと思う。

 

だから、今ちゃんと自分と向き合って

どうして落ちていくのか

思い、考えたり、行動したりする

その意味は何か

他の視点や、道について…

視野の広げ方

この瞬間に並行して起こる無数の事象や

正反対の世界について

それで、感情をどこに着地させるのか

計画していきたいと思う。

 

生きることは

簡単で難しいと思う。

行動や意思はエゴと人を形づくる分子の

生理現象が複雑に絡まりあってできる。

 

自分がわかるまで、

自分のことばかり凝視している間は。

今は多分、きっとそればかり。

 

でも朝、雫に反射した太陽が

あちこちに広がって輝いているのをみていた。

 

日が当たる場所に植木鉢を移動させたのに

数十分後には、

もうそこには当たっていなかった。

 

 

それでふと振り返ったら、

さっきまで日陰だったところが

明るく照らされていた。

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