WEEKEND を観ました。

f:id:ellesky28109:20200701084419j:image

「幸せになりたいだけの人もいるんだ」

ラッセルはそう言ったけど、

きっと誰もが求めてる事なんだと思った。

グレンも。

 

でも

理由づけをして、難しくして

回り道をしすぎて

結局道に迷ってしまってる。

迷わずに進める人は多分いない。

こんな世界だから。

 

2人に必要な言葉は

たった一言だけだったかもしれないけれど

迷路からお互いの姿を見出すために

あのたくさんの会話が必要で

それから近づくにつれて

話すべき事、

幸せのために本当にすべき事、

すべきだった事に気づいたのかな。

 

とても切ない。

 

もしかしたら

あの一瞬光ったように見えた静けさは

また週明けから始まる日々に

かき消されてしまうのかもしれない。

 

人は行きつ戻りつ

停滞と僅かな変化を繰り返してる

 

それらを繊細に描く

アンドリュー・ヘイ監督の作品たち。

「荒野へ」も含め、

人の存在を捉える鋭い感覚に

いつもはっとさせられます。

 

とても素敵な映画でした。

 

 

 

 

 

時刻

引き潮で出来た干潟を端から端へと歩いた。

 

いっぱいまで広がったその道は、

あとはもう

ゆっくりと閉じていくだけ。

 

それで最後には、何もなかったように

全部海の底に沈んでしまう。

 

足跡も、あらゆる光景も。

 

真っ白な流砂が指の隙間からじわりと入り込む

それをしっかりと掴むようにして歩く

 

覚え込ませるように、お互いを。

 

みんな意味のない事を繰り返している。

結末の分かっている物語の真ん中で

もがいている。

もがいてるふりをしてる。

 

でも他に術を知らない。

 

唯一はこれを全部

頭から締め出してしまう事。

空っぽにしてその道を行く。

 

歩いているそばから、何もかも忘れてしまえるように。

 

そうすれば、何も起こらなかったことになる。

 

始まりの時刻も、

意味のない真ん中も

変えることの出来ない結末も

 

何もないはず。

f:id:ellesky28109:20200627205858j:image

頭の中について

 

整理してある場所

していない場所

 

バラバラに散らばっているものを

積み上げてあったものを、かき分けて座る場所をつくった。

周りはまだよく見えない

 

思考の濁流が、すぐ近くにそびえ立つものに

ぶつかっては力尽きて沈んでいくのを見てる。

 

拾い上げたりした事はなかった

もうこっちだって容量オーバーだから

 

忘れる事にしてる。

 

でも忘れるっていうのは、

物質ではないものを忘れるっていうのは、かなり不確かな動作だ。

 

確証は得られないから、まだどこかに潜んでいる可能性がある。

 

だから、

夜とか、風の強い日とかには

突然全てが浮かび上がって来るんだ。

 

そいつはもう、とっくに期限切れなのに

まだ新品みたいな顔してそこに立ってる。

 

握手をしたら帰ってくれるのだろうか?

 

気づかないふりをしていたけど、そういうもの達が

この場所には無数に佇んでる。

 

どうしたらいいとか

方法はないんだ。

この世界にいつも方法がないのと同じように。

 

だから繰り返すだけ。初めから。

 

名乗り出た持ち主達が、燃やされた時

それらともこれっきりにできるのか。

 

だけどもう一つの存在から意図せず隠されたもの達は

入れ物から焼き出されてもなお

その外側を漂い続けるのかもしれない。

 

そうしたらこの場所に扉は必要なくなる

開け放たれた場所から

流れ出た全てが行き着く先は

草や木、海やずっと大きな宇宙

その高原に横たわる事ができた時

 

やっと目を閉じる事ができるのかもしれない。

 

f:id:ellesky28109:20200627060007j:image

 

2回目の

モモがいなくなって、

2年がもうすぐ経ちます。

 

なんていうか

喪失したあの地点から

2年、という距離をもし物差しで測れるのなら

それは一ミリ以下なのかもしれないし

あるいは何億キロメートルなのかもしれない。

 

この曖昧さは

時間なんてものは

人間の内部感覚に対して全く意味をなさないからだって思う。

 

あの子を前より近くも感じるし

何処にも見つけられなかったりする

 

こういうぼんやりとして

言葉やイメージにアウトプットすることの出来ない

自分がそれに対して無知で無力で

そのままにしたものたちが

きっとこの見えない空間に

いくつも佇んでいるんだって思う。

 

記憶、忘却、慣れ、受容、

どれなんだろう

浮き彫りになったものと

薄れてしまったもの

それがあらゆる地点で交わっているから

何が事実なのか

捉えられない。

 

こういうのは

もう誰か言葉にしているのかな?

 

きっともう

誰かが語り尽くしているんだろうな。

 

 

それで、

明日

最後の日々を…

この言い方はあんまりだな…

これからの日々をりんりんがうちで過ごすことになりました。

 

いろんな思いが

もうどうにもならない思いが

この子に対しては募りすぎていて

何か話そうと思うと

胸がいっぱいになってしまいます。

 

人が大好きな子

でも

ひとりぼっち の時間があんまりにも

あんまりにも多かった

多すぎた子

 

謝るのも、これから自分が何かしてあげたいというのも

全部糞みたいなエゴだ。

だけど所詮

人はエゴの中で目を閉じたまま最後まで

溺れてるんだと思う。

 

僕はりんりんのことをあまり知らない。

 

野良犬で、用水路に投げ飛ばされて

寂しい倉庫で繋がれていた子

 

なんてことだろう

 

こういう事象に

もう起こってしまった事に対して

 

濁流のように溢れ出す言葉は

無意味なんだと思う

 

だから

 

明日りんりんがうちに来て

 

それで

 

少しだけ

 

りんりんがゆっくり休む事のできる日まで

一緒にいます。

 

 

f:id:ellesky28109:20200514221204j:image

f:id:ellesky28109:20200514221240p:image
f:id:ellesky28109:20200514221247j:image
f:id:ellesky28109:20200514221251j:image

モモ

 

 

f:id:ellesky28109:20200514221019j:image

りんりん

戸を開ける

 

サラの鍵、という映画を観ました。

感想、感想画などを書くので、

これから観る予定の方は読まない方がいいかもしれません。

-------------

 

 

あらすじ

1942年、パリでフランス警察によるユダヤ人一斉検挙があった日。
10歳のユダヤ人の少女サラは、とっさに弟を戸棚に隠し鍵をかけた。
そして2009年、ある古いアパートを譲り受けたジャーナリストが閉ざされた無数の思い出を探し始める。

 

 

 

この作品には、原作があるけれど実話ではないと知った。

でも、同じような事が

現実世界で無数に起こっていただろう事は

はっきりと分かる。

そして戦後今に続くまで、この時に鍵をかけられた記憶は時に少しだけ開けられ、あるいはずっと開けられないままその管理者とともに世界の外側に消えていく。

しかし痕跡は痛みの光として、全ての人を貫いて繋げている。この痛みに気付いた人が

突然鍵を開ける事がある。

 

 

 

 

 

結果として、このお話の中で

サラの弟は扉の外へ出られないまま亡くなり、その事実を知ったサラは一人生き延びるけれども自死を選ぶ。

アウシュヴィッツサバイバーが、その後の人生の途中で死を選ぶ現実があることは知っていた。

 

影響を受けた作家たちがそうだった。

レーヴィやツェランアメリーやコジンスキーたち。

理由はひとつではなく、あまりにも複雑である。

サラはなぜ死んだのか。

テンプレートの理由を挙げるのは簡単。

罪悪感やトラウマだ。

でも、それはたぶん半分正しくて間違っている気もする。

人の心は一括りに何かに当てはめたりはできないから。

自死について描いたフィクションは無数にあるけれど

それに至る心の歩みを

解剖したひとは果たしてどれくらいいるのだろう。

テンプレートのどこにもない過程を。

こうであろう、

ああであろう、

そう思うのはすごく簡単。

でも切り開いて概念のない地点から調べる必要がある気がする。

痛みと共に去った人のその持ち去ったものは

それぞれがまったく違う成分で構成されているはずだから。

もし、

誰かを知りたいのなら

そうする必要がある。

既製の「事実」は必要ない。

照らし合わせる必要もない。

でもそれらがないと、

手がかりも方法も導き出せないのかもしれない。

そうやって書き換えられ、整理され

名前をつけれて

本棚のずっと高い所に

誰も読まない本としてしまわれたものはいくつあるんだろう。

あるいはそれすらされないまま

空白として行方不明になったままのものは

いくつあるんだろう。

 

それから

さらに進んだ所に待ってるのは

 

知ったところでなにになるんだって事。

 

なぜ知りたいのか

単なる興味や関心か

 

あるいは

結局回り回って自分のためなのか。

 

誰かを知るってなんでなんだ?

もういない人を知るってどうしてなんだ?

 

どうしてヒトはみんな

この道に立ってるんだろう。

f:id:ellesky28109:20200506130233j:image

reeds

はっとして

戻らなくちゃって思う時がある。

よそ見してずいぶん離れたところに来ていた時

ふと、小さな写真の片隅に

よく知っている人が写っているのを

見つける。

よく知っている…そういうつもりだったんだけど

でも中途半端なまま、

いろんな飛び石をジャンプして

川底で光ってる黒曜石を拾い上げて

そこに反射してる太陽の僅かな断片が眩しいのにとりつかれてる。

そしたらその人のことは

本当はまだあんまり知らないのかもしれない。

説明することがなに一つできないから。

日が暮れて、その石は太陽から見放されて

初めの頃の姿に戻る

僕は川の中腹で途方に暮れみたいに

両手をぶらんとさせて立っている。

あの石は手から滑り落ちて川底へと帰って行った。

いやもしかしたら

まだ手の中にいるのかもしれないけれど

持っていたかったのは

あるいは見ていたかったのは

光の断片だけだったんだ。

振り返って渡ってきたはじめの岸をみると

薄暗い木々の隙間で

懐かしい人が佇んでいる

あの悲しそうな顔に気付いているのが

自分だけだったらいいのに

ならなぜ、こっちへ渡ろうとしてる?

さあね

いくつもの光が点滅するんだ

それは日が沈んだらいつも消えてしまう

戻らなくちゃ

目を閉じて冷たい水の中辿った道を戻る

今度は知ることができるだろうか

本当はあれが誰なのかってこと。