日付を書き忘れた夜用の日記から

プラネタリウムに行った

 

ソーシャルディスタンスで隣の人とはかなり遠い

 

人工的に夜になったときには

完全にみんな消えてしまった。

 

だから私は一人で星を見てた。

 

ナレーターの方が「今」はどこにあるのか?

そう言った。

彼方からの星の光はもうずっと前に

その場所を出発して

何年も旅をしてから

小さな熱のかけらとして

私の網膜に到着するから。

 

私たちを等しく捉える

「今」なんていうものはもしかしたら

ないのかもしれないって思う。

 

自分本位でしか

説明することができない。

いろんなことが。

 

ただ誰とも共有することのできない自己感覚の

その中でだけ息をしている「今」以外に

まだ名前を決めかねているものを感じる。

 

それが私にいつも何かを言っている。

無駄にしていいのか

戻るべきじゃないのか

進むべきじゃないのかって。

 

ここで見ているものの

どれだけが「今」なんだろう。

りんちゃんのことばかり考える。

君を見ているのは今だけじゃないと思う。

過去と未来の両方、

あらゆる時間を宇宙の中から

拾い上げてる。

 

星が巡る、月が昇る、日が沈む

私たちは自分のことが見えない。

時速1700kmで自転しているのは自分なのに。

そういうことはこの世界に多分

すごく沢山あるんだね。

だから、こうだって思ってることの

その逆が真理だってこともある

 

ここで見ているものが

ここで見上げている悲しさが

多分全てじゃないんだ。

 

網膜に届くまでにいくつものベールに

遮られて遮られて形を変え続けた光

それでもずっと前から道標として

私たちはそれを信じてきた。

暗闇では、

他に立ち位置を示してくれるものが

なかったから。

 

今どこにいるのかって?

 

どこへ行くんだろう。

今と前とこの先の

りんちゃんは。

 

 

そういえば少しだけ最近のことを

書いておきたい

 

まだ寒い時期に種を蒔いた植物たちが

次々に実をつけ始めました。

葉物野菜はもうすでに沢山収穫ができた。

 

植物たちの中で立っているとき

その力強さと

優しさ

いただくということの恐れ多さと

ありがたさを

痛いほど感じる。

 

それから

私にはきっとずっと分かることのできない

彼らだけが気づいている 

「その時」という瞬間を。

 

最近、お花を見ることも増えた。

一緒にいる人が植物の研究をしているのは

偶然だったけど

二人で緑の中にいると

気付かされることが多い。

これはとても得難い時間だということ。

美しいと思うもの、興味深いと思うものが

同じだということはすごいことだった。

二つの感覚の部屋をお互いに

行ったり来たりすることができる。

 

そこで見たものには

ちゃんと温度があったと思う

 

どこかで優しい

クラシックギターの音が聞こえる

 

生きていく間にこのような瞬間があるとは

自分にあるとは思わなかった。

家族と一緒にいるときの

りんちゃんと一緒にいるときの

一つ一つの感覚だってそうだ。

 

こういう瞬間が私の人生に

あるとは思わなかった。

 

これはどこにあったんだろう?

ずっとあったのに

朝の星みたいに気づかなかったのか

ないと思って自分が目を閉じていたのか。

 

 

これから先

そうじゃない瞬間を沢山経験すると思う。

 

 

でもそれがあったということ。

だからきっと 

 

 

「今」ここでひとり

 

星を見上げていることができるんだと思った。

 

 

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