戸を開ける

 

サラの鍵、という映画を観ました。

感想、感想画などを書くので、

これから観る予定の方は読まない方がいいかもしれません。

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あらすじ

1942年、パリでフランス警察によるユダヤ人一斉検挙があった日。
10歳のユダヤ人の少女サラは、とっさに弟を戸棚に隠し鍵をかけた。
そして2009年、ある古いアパートを譲り受けたジャーナリストが閉ざされた無数の思い出を探し始める。

 

 

 

この作品には、原作があるけれど実話ではないと知った。

でも、同じような事が

現実世界で無数に起こっていただろう事は

はっきりと分かる。

そして戦後今に続くまで、この時に鍵をかけられた記憶は時に少しだけ開けられ、あるいはずっと開けられないままその管理者とともに世界の外側に消えていく。

しかし痕跡は痛みの光として、全ての人を貫いて繋げている。この痛みに気付いた人が

突然鍵を開ける事がある。

 

 

 

 

 

結果として、このお話の中で

サラの弟は扉の外へ出られないまま亡くなり、その事実を知ったサラは一人生き延びるけれども自死を選ぶ。

アウシュヴィッツサバイバーが、その後の人生の途中で死を選ぶ現実があることは知っていた。

 

影響を受けた作家たちがそうだった。

レーヴィやツェランアメリーやコジンスキーたち。

理由はひとつではなく、あまりにも複雑である。

サラはなぜ死んだのか。

テンプレートの理由を挙げるのは簡単。

罪悪感やトラウマだ。

でも、それはたぶん半分正しくて間違っている気もする。

人の心は一括りに何かに当てはめたりはできないから。

自死について描いたフィクションは無数にあるけれど

それに至る心の歩みを

解剖したひとは果たしてどれくらいいるのだろう。

テンプレートのどこにもない過程を。

こうであろう、

ああであろう、

そう思うのはすごく簡単。

でも切り開いて概念のない地点から調べる必要がある気がする。

痛みと共に去った人のその持ち去ったものは

それぞれがまったく違う成分で構成されているはずだから。

もし、

誰かを知りたいのなら

そうする必要がある。

既製の「事実」は必要ない。

照らし合わせる必要もない。

でもそれらがないと、

手がかりも方法も導き出せないのかもしれない。

そうやって書き換えられ、整理され

名前をつけれて

本棚のずっと高い所に

誰も読まない本としてしまわれたものはいくつあるんだろう。

あるいはそれすらされないまま

空白として行方不明になったままのものは

いくつあるんだろう。

 

それから

さらに進んだ所に待ってるのは

 

知ったところでなにになるんだって事。

 

なぜ知りたいのか

単なる興味や関心か

 

あるいは

結局回り回って自分のためなのか。

 

誰かを知るってなんでなんだ?

もういない人を知るってどうしてなんだ?

 

どうしてヒトはみんな

この道に立ってるんだろう。

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