日記

 

この間、「アイヒマンを追え」という映画を観た。

すごく心に残る映画だった。でも、

自分の感じている事はほんの少しの部分で

手付かずの部分を探す事が必要だとも思ったから

何かこうやって書いたりするのは

しなくてもいいかなって思ってたんだけど、

数日ぼんやり考えてて日記としてやっぱり残しておくことにした。

 

確かにあの作品は、フリッツバウアー検事長が、「ユダヤ人問題の最終的解決」に関与したアイヒマンを追っていく

それも一つの流れとしてあった。

自分自身、それが観たいと思っていたから。

だけどフリッツバウアーという人の物語、戦後のある時代の責任と矛盾についての問いかけの物語

見た後に感じたのはそういう感覚だった。

 

連合国の元で民主化を進め、復興に向けて

人々が目まぐるしく日々を生きていた戦後西ドイツ

人々は自国の、自分たちがした事についてある程度の責任は果たしたと思っていたのか、

もう掘り返さないで欲しかったのか。

悪の主人公はヒトラーと彼が従えていた人たちで。

そんなふうに明確な、異質ともいえる存在が戦後の人々を苦しめ

ある意味での安心や自分自身を疑い、そして向き合う機会を少なくさせていたのかもしれない。

官僚の多くは元親衛隊員であったこと。

それだけじゃなく

ユダヤ人であるフリッツバウアーへの脅迫の手紙、そこにはユダヤ人である事を差別し虐げる言葉が書かれていた事実から、敷かれている新たなレールの上で、未だ変わらない意識が行き交っているのを目の当たりにする。

 

この映画で考えさせられたのは、本当の、正義に基づく(この言葉はすごく曖昧だから当てはまらないのかもしれません)

法とは、判断とは、思考とは何かということ。

 

アイヒマンを追い、彼が捕まる事によって社会の中に溶け込み隠れようとしている

元親衛隊員たちが その裁判がドイツ国内で行われた場合に自分たちの立場が危うくなる可能性があった。

多くの権力者達が、この捜査を阻止しようとしていた事実。

フリッツバウアーが同性愛者だという事を、脅迫の一つとして捜査が妨害されることもあった。

映画の脚色も一部含まれているけれど、この彼のセクシュアリティについてを物語の中心に置き

その人物像を描いていた事には明確なメッセージがあったと思う。

 

ナチス時代以前からあった、刑法175、同性愛禁止法。

そしてナチス時代それに反した人々は、凄まじいまでの仕打ちを受けた。

強制収容所で、あるいはその移送列車の中で、あるいは摘発された現場で、あるいはその日常で。

最も残酷な扱いを受けたのは、ユダヤ人で同性愛者だった人々だとも言われている。

 

そして戦後、

ナチスのもたらした罪を人々は理解し、復興へと舵を切っている。

しかしこれはもしかしたら、上部だけきれいに塗り固めているだけではないのか?

虐殺は、自分と誰かの間に違いと、優劣をつけはじめた事が生んだのに

刑法175は1994年までなくならなかった事

そしてこれを多くの人々は常識であると、当たり前のことだと思っていたこと。

該当する人を

嘲笑い、蔑み、罰していた事実。

戦時中の罪をひた隠し、日常生活にひっそりと溶け込み過去に葬ろうとしていた人々。

 

映画の中で「ナチと刑法175は違うんだ」そんな言葉があったと思う。

果たして、本当にそうだろうか。

 

 

アイヒマンの裁判を傍聴したハンナアーレントは、「悪の凡庸さ」を訴えた。

フリッツバウアーもまた、真実の正義とは何かを見極めようとしていた。

自分は真っ当だと思い込んでいる人々の一般論や常識と呼ばれるものの中から、

ある意識を抉り出した。

自らの思考を停止させるだけで、人は簡単に他人の権利を奪う事ができてしまうということを。

 

彼はどんな思いを持って生きていたのか、

未来と過去をどんなふうに感じていたのか

現在をどんな生き辛さをもって切り開いていったのか

 

アイヒマンの逮捕に彼が携わっていたという事が

公になったのは死後ずっと経ってから。

そうせざるを得なかった背景を考えると、言葉が出ない。

 

 

 

最後に。

カールが存在しないと知ってどれほどほっとしたか。

それで

そう思わざるを得なかった事実がどうしようも無く悲しい。

 

f:id:ellesky28109:20191228200003j:image