ライラック の前に

これから描いていく全部のお話の始めに

 

 

 

ある人を探しています。

手がかりは、その人が撮った350枚の写真と

写真の裏面に走り書きされたメッセージ。

それから自宅のある街、野戦郵便番号…

 

その人は、ドイツ国防軍の一兵士でした。

 

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写真は第二次世界大戦

ナチスドイツとソビエト連邦へ侵攻し、そこを戦場とした東部戦線で主に撮られていて、

ロシア、ウクライナベラルーシ、ほんの数枚はフランス侵攻の時のもの。(彼の書き記した地名と、写っている部隊や建物などで判明)

 

僕は多分ちょっとこじれた収集癖があって

昔の誰かの写真アルバムとかを譲ってもらっては、あれこれ自分の絶対に辿ることのできない人生を想像するのが好きなんだと思う。(人ごとでいられる、お気楽なクソ好奇心なのかもしれません。)

 

だけどいつもはこんなにものめり込んだりはしなかった。

 

彼を、(フランツ(仮)と呼びます)探したいと思ったのは

彼の目を通して見るもの全てが、視線や、写真を通して伝わる思考にいいようもなく心を揺さぶられたから。

残された写真の裏に書かれたメッセージにも。

 

 

そして決定的だったのはある事実。

 

東部戦線においてナチスドイツは1941年の
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国(SSR)に侵攻した時、

後方でユダヤ人をはじめとする多くの市民の虐殺を行ったとされています。

特にベラルーシは余りにも悲惨な仕打ちを受けました。

 

主にそれを行っていたのは、

武装親衛隊と警察大隊や専門に特化したアインザッツグルッペンという部隊だと言われていました。

 

戦後のニュルンベルク裁判では、ナチ党、親衛隊、突撃隊、ゲシュタポ、内閣、親衛隊保安部などが犯罪組織として訴追対象となり、

同じナチスドイツでも別の組織であったドイツ国防軍などの陸軍はそれらにほぼ関与しなかったと長い間信じられてきました。

 

ja.m.wikipedia.org

 

たしかに、国防軍兵士たちの手記や捕虜収容所での記録、家族に送った手紙などには

そのような事実は知らなかった。自分は家族や国のために任務をこなしたまでである。

または、何か不穏なことが後方では行われているらしい。という言葉などが残っています。

 

しかしながらその後も、議論や調査は続き

今では

国防軍も虐殺に加担する事があったという事実が判明しています。

(また、武装親衛隊の立ち位置も当初とは変化しています)

www.verbrechen-der-wehrmacht.de

 

www.spiegel.de

 

en.m.wikipedia.org

フランツは国防軍兵士であり、写真の裏の書かれた

撮影場所や、撮影日時などを地図上に並べていくと

ある部隊が浮かび上がり

高い可能性で中央軍集団に属していたことが分かります。

 

 

虐殺が侵攻と合わせてその後方で行われていた時と、

ほぼ同時期にベラルーシウクライナにいました。

イムリーなニュースでは、

2019年4月9日にベラルーシのブレストで

マンション建設予定地から1000人以上のユダヤ人の遺体が見つかっています。

後頭部の銃槍から、1941年6月〜1942年にかけてナチスドイツによって虐殺された人々だと考えられるそう。

 

www.bbc.com

このブレストにドイツ軍が侵攻した1941年6月、フランツはすぐ近くのBug川で写真を撮っています。

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彼は恐らく

いや間違いなく虐殺を知っていました。

 

350枚のうちたった一枚だけ

そのある瞬間を捉えているものがあったからです。

そして彼は他の写真の裏に書いたメッセージとは明らかに違うものを書き残していました。

 

その一枚は、ピントを少しだけ外し

一見しただけでは何が写っているかすぐに分からないようになっています。

スキャンして、拡大して初めて気づいた。目眩がした。

 

検閲を通り抜けるためだったのかな。

国防軍兵士が、それらの場面を見物することや写真を撮ることなどは禁止されていたから。

 

写真は全て父親宛になっていました。

 

 

彼の心の中の本当の事は間違いなく分かりません。

ベラルーシで撮られている写真の多くは土地の人々で

ほとんどの人がカメラに向かって微笑んでいます。中には子供達と彼の戦友たちが戯れているものすらありました。

そして、その土地のあまりの美しさに驚くように朝焼けや生い茂る草花が写されていました。

爆撃や自分たちの砲撃によって、ボロボロになった街も。

 

彼の写真には、

戦争への意気込みも、高揚も、決意も写っていないように思える。

だけど、反戦感情を持っていたかどうかも不確か。

ただすごく強く感じるのは厭戦的な、その場にいるのに

遠くを見ているような眼差し。とても静かな。

 

 

 

そこにあったのは全て個人の、それぞれの思想だと思う。

組織としての行動や規律、国の信条や情勢、

心理を左右するものは間違いなく無数にあったとしても。 

 

一つのカテゴリーとして括られ、現在では善、または悪という言葉が貼り付けられていても。

 

クローズアップすれば、

言葉の表皮をめくった時そこにいるのは

フランツという1人の人と

彼の見たもの、彼がしたこと、彼が感じたことだけ。

 

判断するのは難しい。

彼は誰で何を思ってそこに生きていたのか。

 

ある日突然、もう二度と写真を撮らなくなったのが

何故なのか、想像はできても本当の事はわからない。

 

彼と彼の写真に出会わなければ

彼だけじゃない

ある時、ある場所にいたのはそれぞれの目を持った一人間で、

個人の内側に本当の意味で意識を向ける事はなかったと思う。

 

フランツのことに思いを馳せたとき、

 

猛烈に何か描きたいと思った

彼についてでも彼についてじゃなくても。

いつも行き着くのは

結局は何も分からないってこと。

でも多分誰かの心の分からない事を分からないと描きたいのかもしれない。

それでも何かがそこには間違いなく存在していたこと。

 

 

 

だから 理解に辿り着くのが永遠に無理なら

形にしながら追いかけて、学びながら無知を埋めていきたいとおもった。

 

これから描くものは

自分が考えたいだけの

誰のことでもない誰のためでもない

ただ

いくつかの人たちの足取りを手掛かりとした

物語です

 

政治的思想や意図、関心などは一切ありません。

場所、人、ものなどあらゆるものは想像上の架空なものです。

またなにかを擁護するものでもなく、資料的価値もございません。

 

 

限局的に取り上げる事による罪悪感は意図したものであっても

頭をいつもよぎります。

それは多分、自分が歴史上という膨大な言語化された流れの

どこかに立っているからだと思います。

 

 

ご指摘やご感想など頂けましたら幸いです。

 

 

 

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(東部戦線のはじめの頃、フランツが撮った写真)

 

 

 

一年前の彼を探し始めた頃の記録↓

 

stoner.hatenablog.com

 

 

 

stoner.hatenablog.com

 

 

stoner.hatenablog.com