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仕事場で患者さんのためにテレビがついてて
今それがプラネットアースなんだけど
暇な時、僕も作業片手間に観てて


でも心がずきずきしてきて


地球と
そこで生きてる生命
人間以外の

生きるために生きる生命
そのなんていうか…
(まだうまく言葉が見つかってない。

感じてることはぼんやり沢山あるのに、当てはまる言葉を自分がもってない。

最近すごく感じる。言葉を学ばないと…)


自分がだんだん小さくなって
それで消えていくのを感じはじめて

なんで自分はこんな形をして

ここにいるんだろうってことばかり。

 

話は少し変わるけど

コウテイペンギンの特集が始まったとき

小さな頃の記憶が一気に目を覚ました

(そういう瞬間って、

存在してないと思ってた棚が

真っ黒な空間に突然現れて

乱暴にその全ての引き出しが

引っ張り出される不思議な感覚。

古くなって日焼けしたり

破れたりした無数の紙が

舞い上がって自分に降りそそいでくるみたい。)

 

南極の繁殖地まで

長い長い距離を歩いたコウテイペンギンたちは

つがいになって母親が卵を産んだ後

それを父親が暖める

母親は海へとまた長い長い道をもどり

雛が生まれた時のために餌を取りに行く

父親たちはハドルと呼ばれる

一つの集合体として密着し合い

(ここで絶対喧嘩は起きない。外側の者が凍えないように集団は暖かい中心へと動く)

そこから4ヶ月

零下60度の真冬を飲まず食わず耐え凌ぐ

そして4ヶ月後

雛が生まれた時

彼らはお腹に残しておいた魚を

子供に食べさせる

自分だって空腹で死にそうなのに

太陽がまた昇るころ

地平線の彼方から

母親が帰ってくるのをみつけると

父親たちは歓喜して

お互いパートナーを歌って呼んだ

 

小さい頃

長崎水族館へ行った

父がコウテイペンギンを見たいからって。

帰りの高速道路で

やっぱりコウテイペンギン

ぬいぐるみがほしいって水族館へ逆戻りした

父が不思議だった。

それほどに彼らが好きだったらしい。

 

小学生の頃

読書感想文で「まいごのペンギン」(長崎水族館で飼われていたコウテイペンギンのフジの話です)について書いた。

父が初めてくれた本だったから。

 

今でも家のバルコニーの片隅に

昔は僕より背が高かったフジのぬいぐるみが

今では小さく小さく見えるけれど

そこにいる

 

プラネットアースみてて

父があれほど彼らを好きだった理由がわかった

 

僕も好きになったんだ

 

あそこに出てくるみんなを観てると

なんで自分はこんなふうなんだって

生きるために生きる彼らと

生きていくために生きる自分の小ささ

 

そうはいっても

僕はこの形をしている恩恵にあずかってて

何を思ったって

何もしない自分がいるのもわかってる

 

いつも矛盾してて

この感動も掘り下げれば傲慢で

白々しくて恥ずかしくなる

 

父もそれを感じたことはあるかな

今度話してみよう

 

それでいつかまた

あの水族館へも行ってみよう