お昼休憩終わり。

職場からとても近いので、

家で一眠りしてから午後出勤するのですが

優しい音楽を見つけたので

とても穏やかな気持ちで目が覚めます。

 

行き道、人通りはずいぶん少なくなりましたが

まだ自分の会社は休業にはなっていません。

予防はしっかり…

 

ここ半年くらい、

リビングで寝起きして、

リビングで絵を書いていたけれど

自分の部屋に戻ってみようかな。

今、部屋にいるけど

すごく静かな気持ちもなってるから。

どうだろ、

 

そうだ、

本、買って下さった方々ありがとうございました。

あり得ないくらいびっくりで

とてもありがたいのですが

あと何年も残るだろうと思ってた本たち

残り3冊ずつになりました。

これにて一旦終了して

自分と向き合う時間を作ろうかなと思います。

 

本当にすごいこと…

興味を持ってくださる方が、いらっしゃるということ、

とてもとても贅沢者なんだと思う。

 

心からの感謝です…

 

また帰ったらちゃんとブログ書き直します。

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言葉はどれも不完全で

完全だと思ったものも

あとからどれだけだって形を変える

自分だけの言葉で話したい

そうすれば

それが間違っているって

誰にも分かるわけないから

みんな競い合ってる

何か一番いいものを

当てはまる言葉を

当てはまる言葉

怒り、気分 なんでも

その裏には別の言葉が書いてある

間に溜まった汚れた泥水みたいなのが

感覚的性質を持ったものだけが

本質をつかもうとまだもがいてる

もしかしたらすでにこぼしてしまったのかも

だからいま

それについて話す人は誰もいない

なのになぜまだ覚えていなくちゃいけないのか

それを止めることと

忘れる事はどうして同じ速さじゃないのだろう

知らない言葉で話したい

自分も

あるいは誰かも

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すべての側面について

持ち合わせてるもの

その瞬間的なものじゃ何一つ話せない

 

今話した事

全てに矛盾と

許されない側面があって

考えると全部たわごとだった

Nonsense

さっき仕事から帰ってきて

手洗いとうがい

ゆったりした服に着替えた。

 

今、二階のバルコニーでこれを書いてる。

 

前にちゃんと言葉で書いた時から

かなり経ってた。

 

最近はいろんな事を言葉にするのが

すごく億劫。

日常生活で、ある言葉を使って話したりすることは途切らせることはできないけれど。

何か一つのことを、

どこかにアウトプットするための言葉をかき集めるのが。

 

たぶん、それに伴って自ずとそれらのことを

再認識するのが嫌なんだって思う。

 

たくさんの感情が

毎日何層にもなってやってくる。

どこに立っていたらいいのか、わからない。

数分後には簡単に押し流されるから。

喜怒哀楽のどれか。

どれでもない。

 

だから今、

自分がどんな形をしているのか分からない。

偽物の流動体なら、既に形はないのかも。

 

窓の外を見てる。

昔、隣のマンションが建つ時

古いお屋敷だったその敷地の庭に住んでた

大きな亀のことを思い出してる。

沢山の金木犀と一緒に、コンクリート

埋め立てられてしまった彼の世界と、

彼自身を。

 

昔撮った写真。

どこかの美しい緑の丘。

それはずっと遠くに見える。

 

今は存在していないようにも思える。

 

ここにあるのは

日々生きること

残っているのは

小さな祈り

それから自分ではない誰かの言葉

 

忘れたくないのは

忘れてしまうこと

 

O God, give us
serenity to accept what cannot be changed,
courage to change what should be changed,
and wisdom to distinguish the one from the other.
 
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2冊目の本をつくりました。

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‪2冊目の本、「ここではないどこか」をつくりました。‬


‪ある青年のトラウマ記憶と物語記憶について、ぼんやり考えたものです。‬
‪水彩フルカラー 90ぺージの中に本編の他、設定メモと、背景アイデア、再録の短編(8ぺージ)などが入っています。‬

‪ストーリーと下書きを描いたのが去年の12月で、完成したのが2月の初めでした。

読み返してみて、描ききれないところが沢山あり‬‪、もっとああすれば、こうすればよかったと…。‬
‪もしコミティアに参加できれば、(5月のにも申し込みましたが当落がまだ不明なのと、新型肺炎の状況などもあるので、今後のどこかで万全に参加出来るコミティア…)持っていくので興味を持ってくださった方は、会場で試し読みをして頂けたら嬉しいです…!‬
(一応通販もしております、が、お値段もするので是非一度試し読みをされることをお勧めしております🙇)

 

‪また、本当は94ぺージなのですが、最後の4ぺージに前の本で描いた絵を載せたので90ぺージと記載させていただいています。(ぺージ数の関係…すみません)

次はある2人組の「帰還」について描いています。少しずつ、成長できたらいいな。。

 

 

‪通販サイト↓

‪ここではないどこか | Habi Hirato https://ellesky28.booth.pm/items/1904842 #booth_pm‬

Serching

「光のノスタルジア」「真珠のボタン」という作品があった。

ある時代に拷問と虐殺により存在を消され、未だ身元の分からない人々と、彼らを探し続ける人々。
そして痛みの記憶に寄り添うように広がり続けているアタカマ砂漠パタゴニア大自然

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言葉のない次元への眼差しがヒトの姿を浮かび上がらせる、切なる祈りのようなこのドキュメンタリーに触れた時、初めてチリを知りたいと探し始めた。

 


昨日観終わった「チリの闘い」は上記二作品の40年前、その記憶が作られた時に同じ監督が撮ったもの。撮影時隣でカメラマンをした仲間は投獄と拷問の末、今も行方不明だと知った。
全三部作、263分。

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そしてその第三作目「民衆の力」が始まった時、監督が何故これをつくり、

そして78歳を過ぎた今もまだカメラとマイクを手に故郷を辿り、失われたものを探し続けているのか分かった。

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こんなにドキュメンタリーで泣いたのは初めてだった…。
彼は心を通い合わせ、そして圧倒され、忘れ難い姿を見せてくれた人々をもう一度浮かび上がらせようとしていた。今この時も。

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知っている事は、誰にとっての事実だったのだろうか?「見る側が自分自身を更新させていく」その言葉通りの作品でした。

Thinking out loud

たまにふと

というかよく思う。

多分何かを描いたりするのは

この限られた時間の、

きっとこの今だけなんだろうなって。

それはなんでだかあんまり考えないようにしてたけど

でも考えなくても感覚で分かってる気がする

 

それを超えられるものってなんだろ

自分中心な愛を超えられるものって

生きてきた中では今のところ見つけられてない

 

そうやってつくられて

その中のどこかに偶然的に発生した

何かを描いたり書いたりする動作

 

だから

はじめの土地自体が消えたら

自ずとそれらも消滅するんじゃないかな。

 

もしかしたら

いつの日か

動作自体が何か意味を持って

独立して

立って、歩く事ができるようになるのかもしれないけど

 

今日の、

この時点ではどうかな。

全部の動作の理由づけは

まだ一つの場所、(いや、一人の人?)

に収束していっている気がする

生まれてから全てのことが

きっとずっとそうだった。

それは多分、ありえないくらい得難い事だけど

時々途方に暮れる。

 

 

 

その場所は無限じゃない

誰も永遠には生きられない事くらい分かってる

描けば描くほど時間は過ぎ去って

部屋から部屋へと

組み込まれた柱はだんだん年季の入った温かい色に染まっていって

嫌でも目に入るたびに

すごく切ない気持ちになる

 

そこで生まれて、

いつか出て行かなくちゃいけなくなった時

多分

出て行く、

その動作を止める

それで

その他の動作も。

 

今はそう思う。

今日の、今の、この瞬間には。

 

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ソール・ライターの写真

「永遠のソール・ライター」写真展へ行きました。


これまでは
一目見ただけで彼が撮ったと分かるカラー写真のイメージが強かった。独特な構図と色彩、画面の片隅で、ふとした場面で起こりつづけている物語。


でも、今回の展示ですごく興味を持った。
恋人のソームズを撮っているモノクロ写真、

二十代で精神の病を患い、生涯病棟で過ごしたソールの一番の理解者でもあった妹デボラを撮った写真を見て。


ソームズの写真だけを展示した一角があって、その一枚一枚の視線や切り取り方を見ていると

それを撮っているある人がぼんやりと透けて浮かび上がってくる気がした。

その姿は写真家ソールライター、というよりただソームズを好きな人、に思えて突然胸を打たれてしまった。


写真を撮る、という動作にはいくつもの意味があるのかな?第三者を魅せるためのものと、大切なもの、愛しいものを残しておきたいと思う自身の心のためのもの…

 


展示場の壁に書いてあった
「芸術は忘却と再評価の繰り返し。」というような彼の言葉。そこに込められている思いは切なさ寂しさ、そしてもっと重いものを感じる。


でも、

恋人のソームズは絵を描く人だった。

彼女が亡くなった後、ソールは
「ソームズの絵を今でも新鮮な気持ちで飽きることなく眺めている」とも言っていたのがすごく考えさせられた。

それは忘却とも、再評価とも違う。

永遠の。

 


芸術とはなんなのだろう…
三者が、見ず知らずの人が評価し消費していくもの、あるいは…。

 


誰にも見せなかった膨大なカラースライドフィルム、ひっそりと2人で暮らしていた静かな家。

 

生みだされ続けた2つの姿をした写真たち。

 

イメージの中には何が残されているのだろう?

意味をつけるのは、後から何かを見出すのは独りよがりだということを忘れたくない…

 

そこには確かにそれをつくったひとの心があってそれは確かにその人と大事な人だけが知っているということ。

 

 


何も知らない人間が、勝手な想像を膨らませながら思いを馳せていただけの感想ですが
でも、すごく忘れ難い写真展でした。

 

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(撮影許可スペースから。左上の方の絵はソームズが描いたもの、右の方のものがソールが描いたものだそうです。)